内藤 宏樹 (専修大学大学院博士課程)
人格同一性の重要性 〜デレクパーフィットの議論を手掛かりにして〜(仮題)

 人格同一性の問題とは、通常、以下のように定式化される。 すなわち、ある時点tにおけるある人格Pと、それとは別の時点t’ における人格P’ が人格として同一であるのは、なぜか? あるいは、どのような基準によってであるか?

 このような定式化は、当然のことではあるが、議論の余地を残した記述や語句を含んでいる。 例えば、「人格」とは何を意味するのか、または「同一である」とはどのようなことなのか、これらの問題に答える事なしに、 先の問いに答えることはできないように思われる。

 このような観点から、これまで多くの議論がなされてきた。とりわけ、ロックに端を発する記憶説と、身体説(アニマリズム)との論争は有名だろう。 人格同一性の議論にけるロック派からすると、「人格」は法廷用語であると言われ、ある行為について責任を問うような場面で用いられるのが適切である。 その場合、その行為を当の本人が思い出せるかどうかが問題になる。 すなわち、当の行為を為した人物とその責任を問われる人物は同一人物である必要があるが、その行為を思い出せる人物が、 当の行為を為した人物と同一であると見なす。このような考え方に触発された哲学者たちは、その論的である身体説との論争の中で、自らの考えを発展させてきた。 今日では、そのどちらの立場も非常に洗練され、様々な反論に対してタフになっている。 そして、未だどちらの考えが正しいかについて、明確な決着がついているとは言い難い。 しかし、この両者は、「自分が生き続けているか?」という問いに対して、矛盾する回答を提出する。 したがって、この問題はそのままにしておけない問題であると言えるだろう。

 しかし、1970年代にデレク・パーフィットが『理由と人格』という彼の著書において、強烈な議論を提出した。 それによると、「自分が生き続けていると言えるために、人格同一性は重要ではない」と主張する。

 身体説も記憶説も、人格同一性がなんらかの(身体的あるいは心理的な)性質、または出来事のある種の関係性に存していると主張するのであれば、 それは人格同一性についての還元主義であると言う。反対に、そのような性質や出来事、そしてそれらの関係性とは独立に、人格同一性が成立すると考えるなら、 それは人格同一性についての非還元主義ということになる。 パーフィットによれば、非還元主義をとるなら(我々は無自覚的にそれを採用しているのだが)、デカルト的な自我を認めなくてはならない。 そして、還元主義を採るならば、人格同一性は(私が生き続けていると言える為に)重要ではないと結論すべきであると主張する。

 我々は個体と性質という考え方を持っている。この観点から、見ると還元主義者は人格について、性質という側面に注目しているように思われる。 反対に非還元主義者は、個体であるという側面に注目していると言えるだろう。 しかし、我々は個体と性質に関して、明確な観念を持っていると言えるのだろうか。

 このような観点からパーフィットの議論(主に『理由と人格』第三部)をサーベイすることによって、人格であるとはどのようなことかを見いだしたい。 そして、そのことによって、人格同一性が何に依存するのかが明確になるだろう。

 ところで、このような議論はパーフィットに対する直接的な反論を構成するものではないことに注意されたい。 我々人格とは本質的にどのような存在であるのかを問うという意味では、私もパーフィットと同じ目的を持っていると言える。 しかし、彼が我々の常識を疑うことによって、道徳や合理性についての新しい理論を作る事に興味があるのに対して、 私の目的は日常で無反省に行われていることを、反省的に知ることによって、それが我々の実践的な活動の中で、 どのような重要な役割を果たしているかを見てとることにある。 したがって、個々の主張に関して私とパーフィットは対立するかもしれないが、議論の目的が異なるので直接的な反論をしているわけではない。 むしろ、この発表での目的は「我々はどのような存在者であるのか」を知ることにある。