村上靖彦(日本大学)
「現実についての現象学 デカルトの懐疑とレヴィナスの「ある」」

現実とは何か、現実とどのようにしたら出会うことができるのか、あるいはどのように出会い損ねるのか、これが本研究を動機づけている問いである。このように考えたときに、西洋哲学史は(キリスト教神学も含めて)この現実との出会い方を探る試みであったと考えることができる。自然学を超える学としての形而上学とは、認識によっては了解し得ない現実との出会い方についての学であったといえる。生起したにもかかわらず体験できない事象・わけがわからない事象としての「現実」へと形而上学は踏み込むのである。形而上学という語に重きを置いた二人の哲学者デカルトとレヴィナスもそのような現実との出会い方について思考した哲学者の一人である。本稿では、両者を論じつつフッサールを念頭に置き、反思弁・反形而上学として構想されて発展してきた現象学の中に、現実についての学としての形而上学を位置づけし直すことを試みてみたい。

『省察』における誇張懐疑は、二段階の議論の構成になっている。一段階目は欺く神が導入される以前の懐疑つまり(知覚・想像・幻覚・夢など)直観の諸領域の区別をかっこに入れる懐疑であり、二段階目が欺く神を導入することで得られる、領域存在論・形式存在論そして形式論理学のかっこ入れである。これによってコギトはあらゆる秩序を失った了解不能な事象に襲われることになるとともに、コギト自身実は志向性や経験を秩序立てる諸カテゴリーをもたない「自己」として現象する事になる。このような眩暈をデカルトは「深き淵」と表現している。コギトは心身二元論の定式化、志向性の極や自己統覚といった通常の理解には還元できないのである。

このようなデカルトの経験は、レヴィナスが『実存から実存者へ』で「ある」と呼んだ現象と呼応する点がある。「ある」とは存在者なき存在の経験と定義されるがその形式上の特徴はやはり経験を秩序づけるカテゴリーのかっこ入れにある。この点で「ある」の体験と誇張懐疑における眩暈は同質のものであるが、ところが実際には対照的な結果を生む。誇張懐疑はエゴとしての主体の創設へと直結しているが、「ある」の体験は主体の匿名性への溶解の体験であり、そこから主体を定立するhypostaseは不連続的な出来事である。

誇張懐疑はポジティブであり「ある」はネガティブなのである。つまり前者は了解不能な現実の引き受けに成功して主体の定立にいたるのであるが、後者は失敗の記述であり、主体の定立のためには別の契機を導入する必要に迫られるのである。欺く神・悪い霊は呼称にも関わらずポジティブな装置であり、経験的には現象し得ないがコギトを創設するために方法的に要請される超越論的な契機である。「ある」は経験的に体験される事象であるが主体の解体というネガティブな体験である。誇張懐疑とは現実を引き受けて主体を創設するために必要なしかし経験し得ない「形而上学的」な装置なのであり、経験を支える構造として超越論的なものにとどまる限りにおいてポジティブなものである。現実との直接の出会いは主体を破壊するが、同時に、出会いを可能にする装置としてのみ主体は可能になるという逆説をデカルトは明らかにしている。「ある」の体験は逆に現実との出会い損ねの体験であり、冒頭に書いたようにある種の犯罪がそのような出会い損ねの様態であるとするならば、レヴィナスが『マクベス』という犯罪劇における幽霊への怖れを論じるのは必然であろう。「ある」は実は現実そのものとの出会いではなく、現実の影である。こうして現実と出会い直して主体を創設する仕組みとして、レヴィナスは他者論へと導かれることになるのである。

※お断り
講演者の希望により、講演予稿を一部改変して掲載しています。
ご了承ください。(2008/6/5)