認識論の社会化と非個人主義的内在主義
伊勢田哲治(名古屋大学情報科学研究科)

伝統的な英米の認識論が個人主義的であったということはしばしば指摘され、認識論を社会化する必要があるという主張もだんだん市民権を得つつある。しかし、認識論を社会化すると一口に言っても、さまざまなレベル・内容が考えられる。本講演では、その全体像を概観した後に、特に「非個人主義的内在主義」(non-individualistic internalism, NII)という考え方について詳しく考察する。

認識論の社会化のあり方として少なくとも以下の三つのパターンが存在する。第一に、認識主体の社会化、すなわち信念を持ったり推論を行ったりする主体そのものを個人から集団へと移すという考え方がある。ギルバートの集団的信念についての研究などがこの分類に属することになるだろう。第二に、認識論的判断対象の社会化という考え方もある。これは、第一の考え方と違い、信念形成や推論は個人的レベルで行われることを認めつつ、その背景の社会的プロセスを認識論的判断の対象としようという考え方である。科学哲学の一分野として社会認識論が行われる際、多くはこの第二のカテゴリーに属する研究がなされており、拙著『認識論を社会化する』で主に取り上げたのも主にこのカテゴリーの研究である。

第三に、認識論的判断基準の社会化がある。第二のタイプの社会化と第三のタイプの社会化の差は微妙であるが、物差しと物差しで測られる方のどちらを社会化するかという問題である。科学社会学で暗黙のうちに使われる合意主義的な認識論はこの第三の意味で認識論を社会化しているが、分析系認識論や科学哲学ではまだこの意味での社会化はあまり注目されていない。以下で詳しく紹介するNIIは第三のタイプの社会化をめざす。

NIIについて説明するためにはまず、認識論における内在主義対外在主義の論争を押さえておく必要がある。内在主義は信念の正当化に使える材料が個人の「頭の中」にあることを要求するのに対し、外在主義は頭の中にない要素も信念の正当化(保証)に使えると考える。外在主義の説得力は、犬や赤ん坊も知識を持ちうるといった直観を説明できる点にある。他方、内在主義の説得力は、正当化の基準を認識論的責任と結びつけることができる点にある。つまり、外在主義では、自分の信念が正当化(保証)されているかどうか本人に確認できなくてもよいと考えるため、いわば無責任に何かを信じることになる、と内在主義の側は批判するわけである。これに対しては、外在主義側は、そもそもとれない責任を要求する方がおかしいと反論するであろう。

NIIとは、信念の正当化に使える材料を個人の頭の中に限らず、集団の誰かの頭の中にあるものにまで拡張する考え方である。内在主義や外在主義にいろいろなバリエーションがあるのと同様、NIIも「集団」にどこまでを含めるかでさまざまなバリエーションがありうる。外在主義に非常に近いバージョンもあれば、個人主義的内在主義に近いバージョンも考えることができる。NIIのうちでどういうバージョンを支持するべきかはまた別に論じられるべき問題である。

NIIの一つの魅力は、内在主義と外在主義をささえるそれぞれの直観をある程度説明できるところにある。一方で、NIIは認識論的責任の概念を集団レベルで維持することができる。つまり、犬や赤ん坊は自分ではもちろん自分の信念を正当化できないが、正当化の責任を誰かほかの人が肩代わりできると考えるなら、それほど無理なことを要求しているわけではないことになる。また、通常の外在主義で信念の保証に持ち出される本人に分からない因果連鎖や信頼性は、集団の誰かが確認できるかぎりで正当化に利用できることになる。

以上のようなNIIの考え方はまだ素描の段階にとどまっており、全面的な哲学理論としては不十分である。しかし、科学のような知的分業が常態となっている領域に認識論をあてはめる上では、なにかしらNIIのような、認識論的判断基準そのものを社会化するような思考法を模索する必要があるのではないだろうか。